昭和57年12月という時点は、憲吉を見ると面白い時期である。この月、健吉は還暦を迎える(26日が誕生日)。
その1か月前から弱気な句があふれる。
寒く剃り寒く呟やく「還暦か」
自鳴鐘カンレキといま零時打つ
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン
12月になると、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
更けて柚子湯に恋潰すごと柚子潰す
いつも冬愁苔を撫でれば苔妻めき
師走二十六日いま死ねば憲吉忌 炎ゆ冬バラ
死ねば野分が葬送してくれるか君らの怨歌
一見反省に満ち満ちているようだ。ちなみに、「死ねば野分」は加藤楸邨の「死ねば野分生きてゐしかば争へり」を借用したもの。憲吉にはこの類が多い、自分他人を問わず洒落た文句は共用と考えていたようだ。それでも、六十歳という節目の年は憲吉も粛然とする思いを抱かないではいられなかったのだろう。
しかし、性懲りのないのが憲吉という人。
ハンドバックは男のポケット愛経て恋
ポインセチアの緋が訴える遅き帰宅
同時期にこんな句を詠んでいるし、翌年には、
島擁く港私を繋ぐあなたは虹
街は傘咲かせあなたはオベリスク
窓に虹のけぞる七彩 女体も亦
と憲吉調が絶好調である。さて話を戻して、
多岐多雑多弁多職で今年も昏る
を裏付ける活動を上げてみよう。
『春の百花譜』『食は「灘萬」にあり』『美味求心』『女ひとりの幸はあるか』『みそ汁礼讃』『会社の冠婚葬祭』『食べる楽しみ・旅する楽しみ』『洒落た話のタネ本』『東京いい店うまい店』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』『言いにくい、困ったときの話し方』『全国寺社めぐり』『味のある話』『手紙上手になる本』などなど。この1~2年書いた本であるが俳句関係はほとんどない。おそらく憲吉がすっかり吹っ切れた時期がこの年であったのではないか。シニカルながら安住の地を見つけた楽しさがある。
以上すべて『方壺集』。