戦後俳句を読む(10-3)・・・攝津幸彦の句 幸彦と前衛/北川美美

「前衛」という言葉に激しさがある。躍動するエネルギー、それまでの流れを変えていこうとするあらゆるものを巻き込む力。幸彦の過ごした60-70年代の青春時代。まさに前衛芸術が盛んだった時代背景がある。時代を変えて行こうとする学生たちの紛争もその背景にある。すべては渦のようだった。

前衛美術、前衛映画、前衛写真、前衛音楽、前衛小説…前衛芸術とは、「運動」というにふさわしい、あらゆる分野を巻き込んでいく力強いエネルギーだ。わけのわからない、絶叫のような空間に観客あるいは読者を巻き込みながら時間が進行する麻薬性。閉塞の解放、個の開化の実現を目指したのである。その興奮は、幸彦が俳句にのめり込む原動力となった。

木に泊まる四人にひとり紅葉す 幸彦(第一回五十句競作佳作作品)

前衛俳句と言えば、金子兜太、高柳重信がその旗手として挙げられ、さらに加藤郁乎氏の前衛活動もエネルギッシュであった。(*1)

霏々としてあととりはない番外の灰かぐら 加藤郁乎『形而情學』

そして、前衛芸術を語るとき、「実験」という言葉がしばしば付けられる。すでに幸彦の前にあった前衛俳句も「実験」的な仮のものとして映っていたのだろうか。

南浦和のダリヤを仮りのあはれとす 幸彦

前衛俳句について三橋敏雄が語っている。

「(中略)俳句の方は金子兜太とか赤尾兜子、それに高柳重信なんていうのがそっちの方の代表者だけれど、なんとなく否定的に葬られちゃうわけでしょ。どうしてああなっちゃったのかっていう理由をきちんとだれもまだ言っていないんだな。(中略)特にあれはね、六十年安保以降の空気と、どうもどこかで区切りがくっついちゃっているんでね。(中略)やっぱりこれも戦前の新興俳句が反伝統で否定されたように、なにかが働いたような気がしてしょうがないんですよね。(中略)」(恒信風第二号・三橋敏雄インタビュー/1995年)

敏雄のいう、「どうしてああなっちゃったのか」は、おそらく、『現代俳句ハンドブック』の「前衛俳句」(執筆:川名大)の箇所、「昭和36年現代俳句協会から有季定型派が脱退し俳人協会を設立したのを機に俳壇ジャーナリズムから前衛派の退潮があり、前衛派内部の対立も深まった」その辺の原因ということだろうか。先の敏雄のインタビューは重信没後12年経過時の収録である。「運動」としては確かに終息したという見方が強い。一つには俳句は、師系が強いということが前衛を活動として続ける弱点であったと思える。破壊、自由、自己の解放ということがテーマであるのに、師系は邪魔である。

幸彦は、『俳句研究』(昭和48年11月号)の「第一回五十句競作」で鮮やかに登場した。高柳重信の選である。前衛俳句の、その「運動」の終息をすでに察知していたかのように、第二回五十句競作の入選以降は重信の懐へ身を委ねることなく、17音の俳句形式を守りつつ、独自の修練と怠惰を繰り返していることが全句集から伺える。なので、前衛作家としては、適格な判断であったのかと思う。作品には、むしろ、当初より西東三鬼、渡邊白泉、三橋敏雄に直観、そして個々の言葉の深層部に読者を引きずり込むところは、特に敏雄に影響を受けているように思える。

チェルノブイリの無口の人と卵食ふ 幸彦
広島や卵食ふとき口開く 三鬼

物干しに美しき知事垂れてをり 幸彦
ひらひらと大統領がふりきたる 白泉

はつ夏の折角の血の指ふふむ 幸彦
はつなつのひとさしゆびをもちいんか 敏雄

前衛芸術作家(*2)の詩をみてみよう。

オノヨーコの詩。

RIDING PIECE
 
Ride a coffin car all over the city.
 
1962 winter

* “GRAPEFRUIT” by Yoko Ono

一行の詩が不思議なメッセージとなる。下記の幸彦の句と涅槃という題材こそ似ているが、幸彦句はメッセージ性を封印し幻影であろうとする。言葉のアクロバット的な駆使により読者をあちこちへ飛ばす。マジョリティではなくマイノリティの読者を誘う。生活の翳を引きずっていないところがヨーコと幸彦との共通点である。

一月許可のほとけをのせて紙飛行機  幸彦

そして、かの安部公房は、リルケ、ハイデッカーの傾倒者であり処女詩集『無名詩集』にその失われた青春性をみるようで輝かしい(*3)。「言葉から動く」という印象がある。

安部公房の詩。

<夜だった>
 
夜だつた
クリームのやうに濡れた
奇妙な風がふいてゐた
部屋の中ではふと天上や壁を
まるで自分の皮膚の延長のやうに
しかし外では
ああ 破風をゆるがし
数々の過ぎ去つた太陽が涙となつて
眼の中に逆流する
そんな風が吹いてゐた
冬はよごれて道端にうづくまり
どこからか春が
まぎれこんでくる
町に出よう
ショーウィンドウの中では
もう人絹の華が咲き出てゐる
影が二つづつ
その中に映つてゐる
ひたひたと風にひたつて
すべての眼が涙をすすり込みながら
唇から早くも散つた赤い花びらが
ほんのちよつぽり煙草のやにを落し込み
ああ 世界が風邪をひいてゐる……三月
 
[*1949.3頃制作] 安部公房

「クリームのように濡れた風」は、アヴァンギャルドの夜明けを詩に託しているようである。そして夜が過ぎ、朝が来て、昼が来て、鏡に幸彦が映っていた。

階段を濡らして昼が来ていたり 幸彦

幸彦は、60年70年代の日本の前衛芸術運動に触発され、渦のような時代のエネルギーを言葉に見つけようとした。前衛芸術運動、ひいては前衛俳句の路地裏から幸彦はヌエ的に出てきたのだ。

路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 幸彦

昭和の終わりとともに激しさよりも穏やかな精神性を求める平成の流れに変わっていく。前衛は運動として衰え、崩れゆく昭和の幻景に身を委ねるしかない。幸彦が現れそうな店に行ってみたい。ふと新宿の路地裏のどこかでレエン・コオト姿の幸彦が背後にいるような気がする。遭ったこともない俳人でありながらどこか懐かしい。

雪の日の戦後に生れて以後も戦後 幸彦
太古よりあゝ背後よりレエン・コオト


*1)加藤郁乎氏の俳句は舞踏とコラボレーションされ「俳句」が前衛芸術という空間で上演された。タイトル:『降霊館死学(1963/出演:土方巽、他/美術:池田満寿夫)』『形而情學(1986)』、いずれも草月ホールで上演。「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)という言葉が生々しい。

*2)日本の前衛集団に「世紀の会」(1950年代)があった。安部公房を中心とし、関根弘、高田雄二、瀬木慎一、勅使河原宏らが参加した(岡本太郎、花田清輝は特別会員)。当時の勅使川原宏の父・蒼風がミッシェル・タピエのアンフォルメル運動に参加し、かつ現代美術のパトロン(サム・フランシス、ジョルジュ・マチウなど)ということもあり活動は草月アート・シアターが拠点となった。武満徹、オノヨーコ、一柳彗、ジョンケージも巻き込み、実験的な前衛芸術が展開された。

*3)番外編:安部公房の詩

「別れ」
涙なく泣きたければ
声もなく笑みたりき
夕暮に
君行く日

白泉の「われは戀ひきみは晩霞を告げわたる」を彷彿させる。白泉1913年生まれ、公房1924年生まれ。かの安部公房も白泉の句に涙しただろうか。

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