国境の西にジョン&メリー没る
「ケンとメリー」ではない。ジョン&メリーである。
「現代俳句」9号(1980年)に寄せられた幸彦のアンケート回答に以下がある。
問:俳句における課題、執筆・出版予定など
答:自分なりの俳句の完成期をどこまでおくらせることが出来るか。「豈」に精力的に作品発表する予定。来春、書き下ろし句集「John & Mary」を上梓の予定(千句くらい)。
ジョン&メリーがお気に入りだったようである。
『ジョン&メリー』。1969年のアメリカ映画。ダスティンホフマンとミアファロー主演によるニューヨークを舞台とした24時間のラブストーリー。メリーは、自由奔放だが知的で自然体な女性。嫌味がなく、上品な可愛さがある。ふとバーで知り合ったジョンとメリーは一夜を過ごすMid Centuryな白を基調とするジョンの部屋。朝を迎え朝食、そして昼食までも共にし、他愛無い話を二人は続ける…。
暗さのない映画である。会話、衣装、インテリア、NYという街、“おしゃれ映画”の部類として今後も残っていくだろう。
掲句、青春を葬る儀式を『ジョン&メリー』に託しているように読める。ブレッド&バターの『あの頃のまま』(1979年・作詞作曲/呉田軽穂:ユーミンのペンネーム)は「サイモン&ガーファンクル」が出てくるけれど。
その後の幸彦句は、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(藤田敏八監督)の秋吉久美子風な女性の影がたびたび登場する。そのような幸彦の脳裏に描かれた女性を「金魚」に置き換えているという説もある(@金魚論争)。日本のヒッピー文化の洗礼を学生時代に受けている幸彦世代は、西洋のそれと違い、通称フーテンともいわれアンダーグラウンド文化の基礎を作ったといってもよいかもしれない。文化は暗闇から生れる。
「没る」は、「いる」と読むと予想するが、「ぼつる」の業界用語のように読むこともできようか。(山口誓子の句に「郭公や韃靼の日の没るなべにとは」「太陽の出でて没るまで青岬とは」がある。誓子を踏んでいるとすれば、「いる」だろう。)また「国境の西」とは…。「国境の南」であれば、ナット・キング・コール『国境の南』ジャズのタイトルがあり、村上春樹(*1)の長編小説のタイトル『国境の南、太陽の西』(1995年)はそれからきているらしい。オリバーストーンの映画のタイトルにも”South of border”がある。ヒントはその辺から得たとしても、どうも違う。青春を葬るのであれば、「国境の西」とは、日本の西、幸彦が青春時代を過ごした箕面、枚方あたりかもしれない。
秋出水「カルメン故郷に帰る」頃
掲句と比較してみるとどうだろう。「ジョン&メリー」には鍵かっこ(「 」)がない。「カルメン…」の句は、映画『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子主演/1951年日本映画)のストリッパーの二人が珍道中を繰り広げるあの時代の頃という郷愁がある。「ジョン&メリー」は、「ジョンとヨーコ」「ケンとメリー」「ジャック&ベティ」「ヒデとロザンナ」等々に置き換えることのできない、幸彦の中の永遠におしゃれな二人、ジョンとメリーを葬るのだろう。好きだった彼女と行った映画のパンフレットを破り捨てる、回想の恋を葬るのだ。
幸彦は、『ジョン&メリー』に別れを告げ、デイビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年米仏合作映画)的な現実・夢・空想・回想に読者を行き来させる。読者はどこかで起こったようなデジャブな自己体験を重ねあわせ、時に郷愁に浸ったり、映画を観ているように笑ったり、それぞれの人の脳裏に描かれるさまざまな映像を楽しむのである。
*1)村上春樹の2003年翻訳本の中にサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』がある。野崎孝訳が白水社から上梓されたのは1964年である。村上と同世代の幸彦も『ライ麦…』影響は多分に受けたであろう。『ライ麦…』冒頭箇所に主人公の兄の処女出版の書籍名が『秘密の金魚』であることにも驚いた。