鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓
逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。
くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。
けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。
そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ
これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。
このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。
憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。